メンバーズ・トーク

2025/09/20 09:38

日本写真史(上・下) 鳥原学

読書の秋・・にはまだ早いけど。
文字通り、日本の写真の歴史について書かれている本ですがなかなか面白かったです。

例えば、第一次大戦後。
大正から昭和初期にかけて、写真というものが一気に大衆文化として広がり、グラフ誌がメディアのメインストリームに躍り出てくる。

世界的にいうと、その中心地はドイツとソビエトなんだよな。
メカ的にはライカA型の登場による。

>以上のような写真の動向の基底には、第一次世界大戦の惨禍がヨーロッパにもたらした「精神の危機」と呼ばれるショックがあった。

>ことに革命によって帝政が倒れ、新たな国家体制で再出発したドイツとソ連では、前衛芸術家たちが言語や文化の違いを超える新たな視覚言語の可能性を、写真によるコミュニケーション技術の進歩のなかに見出していた。

なるほど。
日本でも1931年に「独逸国際移動写真展」が開かれ、報道写真や芸術写真、フォトルポタージュのような活動が活発化する。

が、満州事変以降、戦意高揚のための強力な手段として、ラジオや映画と並んでグラフ誌が利用されるようになる。
名取洋之助の雑誌「NIPPON」などは、軍の情報部と裏で結びついて「情報戦」を活発におこなう。

土門拳はそれを批判して、欧米に見栄を張った「文化的虚飾主義」。
日本の軍事力をやたら強調する「恫喝威嚇主義」と切り捨てる。

さらに「旧来の物欲しげな宣伝」から「たくましき報道へ切り替えられねばならない」と言い放つ。
その記事を載せた「日本評論」は、即、廃刊となり、土門拳は国際文化振興会をクビになる。
やるなあ、土門拳(^^)

とかまあ、そんな調子で、日本の戦争報道の実態。
戦後の焼け跡に立った写真家たちの活動。
報道写真の復興から高度成長時代へ・・・
リアリズムの限界と主観主義の台頭。
ヴィジュアル雑誌の登場、表現の多様性、写真黄金時代の到来。
そして、写真のデジタル化・・・・などなど・・・

上巻が1848年~1974年まで。
下巻が1975年~2013年まで、を概観する。

その時代と写真の関係性について語る。
というより、写真というメディアを通して、日本の近現代史を眺めてみるとどうなるのか?
これはですね。
なかなか面白かったです。

3件のコメント (新着順)
しえん
2025/09/24 22:06

読書の秋になりました。涼しいって素晴らしいですね。

土門拳は、戦中は大政翼賛会の嘱託カメラマン として活動しました。
雑誌『写真週報』など、国策宣伝に関わる媒体に写真を提供しており、戦争遂行を支える「報道写真家」の一人でした。
確かに名取洋之助を批判はしましたが、それは報道の仕方についてであって「戦争報道」そのものの批判ではありませんでした。
戦後、土門拳は自らの戦争責任については、ほとんど語っていません。反省もしていません。
戦後、いい仕事はしましたが・・。

「名取洋之助賞」や「土門拳賞」は、今でも大きな写真賞なのはどうなのでしょう。

鳥原学という写真史研究者は、日本の写真史を一般読者向けに体系的に紹介していますが、「写真家の戦争責任」という発想はないのでしょうか。
その辺はどう書かれているのか知りたいものです。

昨今の情勢では、また同様の写真家がたくさん排出されそうで恐れおののいています。

私のような素人初心者カメラマンの考えることでもないですが、「やるなぁ、土門拳」の一言に反応してしまいました。


オムライス島
2025/09/24 22:57

えっとですねえ、ぼくが舌足らずだったかもしれませんが・・
>やるなあ、土門拳(^^)
っていうのは、土門拳の発言内容が的を射ているなあと思ったのと、その思い切りの良さですね。
まあかなりのハレーションを起こすことは予想できただろうにっていう(^^)

従軍カメラマンとして、戦意高揚のためのグラフ誌に携わった戦前の多くの写真家については、特にその個々の写真家の責任を追及する?という姿勢ではないですね、筆者の鳥原学氏は。

ただ、戦後、東京裁判などが行われる中で、戦争責任の追及を怖れた多くの写真家が、保存していた戦場写真を焼き捨てた・・証拠隠滅・・ことは記述しています。個々の写真家だけではなく、新聞社・出版社なども同じですね。まあ結局、そこの責任は追求されませんでしたけど。

あと、大空襲のあとの被害状況や被爆後の広島の状況を撮影した写真家のこと。
戦後、GHQによって国家総動員法、軍機保護法などが撤廃され、報道写真が復活するのだけど、そこにはGHQによる新たな規制が生まれてくる。
広島・長崎の被害を伝える写真への制限だとかですけどね。

その後、戦後の写真を取り巻く状況の変化、高度成長時代へ。
ドキュメント写真・報道写真から主観主義的な写真の時代。ヴィジュアル系雑誌の隆盛。ヌード写真。

湾岸戦争や阪神・淡路大震災、東日本大震災などを経て新しいフォトジャーナリズムの流れ。記録するという写真の本質?の見直し。ガーリーフォト。
インターネットによって不特定多数が写真を共有する時代.etc・・・と続くわけですけど。

執筆にあたっての基本的な姿勢は、「時代をつくった写真、時代がつくった写真」ということだと語っています。
「それぞれの時代の写真の成果を、写真家個人の資質と努力に帰するのではなく、やはり社会的な風景の中で捉えたかった・・・」

要するに、その時代の社会状況がその時代の写真を生み出したんだという社会学的な視点?で写真史を再構築するみたいな論点かなと感じました。

makun
2025/09/25 03:24

話は少し変わりますが、今、まさに我々の行動が問われているように思います。

10年後、20年後に振り返ったとき、なぜあのとき戦争を止められなかったのかと言われないようにしないといけませんね。

カメラが記録する景色は平和なものであってほしいと思います。

オムライス島
2025/09/25 06:41

えっとですね、この本の中で、筆者は・・
「国策宣伝に携わった報道写真家が戦後に取った態度には、主に二つあった。ひとつは沈黙である。・・・は生涯口を閉ざし続けた・・・もうひとつの態度は、反省と思想的な転向を明確にすることだった。・・・」と書いています。

そこで社会主義リアリズム運動が起こるんだけど、いわゆるレッドパージが巻き起こって逆に思想的に弾圧されるような事態になり・・・そのあと、高度成長と共に、もっと個人的な生活へと写真家の眼は向くようになる。

確かに、時代が写真を作っていく状況ですね。
しかし考えてみると、写真だけではなく、国民の意識や思想も時代とともに変わってきたということだと思います。

いずれにせよ。全員で同じ方向を見ないといけないんだ!という社会ほど怖ろしいものはないので。
そんな社会がもう一度来ることは恐怖だし、時代に抗する一人でありたいと思いますね自分自身も。

しえん
2025/09/25 10:54

本文を読んでないので、ただの雑感程度でごめんなさい。

「それぞれの時代の写真の成果を、写真家個人の資質と努力に帰するのではなく、やはり社会的な風景の中で捉えたかった・・・」
という鳥原氏の写真評論の在り方に、最初からちょっと違和感があったのかも・・です。

「個人の資質と努力」を排除した美術評論や文芸評論は存在しないのに、特殊とはいえ同じ表現領域の写真評論が成り立つのか・・というものです。

「それぞれの時代の写真の成果は、写真家個人の資質や努力と切り離して語ることはできない。しかし同時に、作品が生まれた社会的・歴史的文脈を無視して理解することもできない。したがって、写真を評価する際には、作者個人の表現力と、社会的な風景との双方の関係に目を向ける必要がある。」というのが私の持論です。

「社会状況がその時代の写真を生み出した」そういう一面はあるでしょう。
「社会関係の中で行為するのが人間」ですから。
しかし、私(あるい森山大道)の作品を「社会状況が生み出した」なんていう一言でくくる評論家がいたら「バカか・・。」と立ち去るだけです。
そこからは個人の思想・責任や倫理も消えてしまう気がします。

ごめんなさい。あくまでも雑感です。
久しぶりにいろいろ考えました。
ありがとうございました。

帯が「安全への逃避」なんですね。
不勉強で未読なので、今度読んでみます。


オムライス島
2025/09/20 22:41

おお、そうですよ~
パッと目につきますよねやっぱり。
戦場カメラマンにあこがれたけどなあ・・その昔(;_;)

makun
2025/09/20 11:58

私は写真論や写真史はあまり読まないのですが、オムライス島さんのご説明が上手なせいかこの本は面白そうですね。(^^)

各社の新書には写真関連のタイトルがポツポツあって、ときどき古本で手に入れて読んでいます。


オムライス島
2025/09/20 12:03

makunさん、ありがとうございます。
これはねえ、けっこう面白かったですよ。
上下二冊なんで買ってから、しまったかも・・と思ってたんですが(^^)
読むと、写真を通じで日本の現代史を振り返るみたいな視点がおもしろかったです。

makun
2025/09/20 12:14

写真は社会の動きと切っても切れないつながりがありますから、歴史、特に近現代を振り返ることは大切かもしれませんね。よい機会なので私も読んでみます。(^^)