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TOSHI
2025/11/22 18:24

懐かしの昭和の鉄道風景④

今回は房総方面(千葉県)へのターミナル駅として活躍していた、昭和43(1968)~44年の両国駅の模様です。昭和44年までは、朝夕各1往復ずつ銚子と勝浦と館山を結ぶSLが牽く普通列車が走り、また急行列車の始発駅となっていました。

 

1枚目は朝、総武線の新小岩付近を両国に向けてひた走るSL旅客。この当時は総武快速線が開通する前の複線時代で、通勤電車の間を縫うために両国~千葉はノンストップでダイヤ維持に努めました。

 

2枚目は現在は使われていない4番線に到着したSLと、降りてくる乗客たち。おばさんばかりですね。

 

3枚目は3~6番線は機回し線もある行き止まり式のホームになっておりました。

 

4枚目はおばさんの理由で、野菜や果物・卵・米等を都内に行商する人が多く利用していました。

 

5枚目は房総半島の道路事情が悪く、下り列車の一部の車両を新聞輸送専用としていました。

 

6枚目は現在の江戸東京博物館と国技館のある位置に、貨物および客車区があり勾配を上り下りしていた。

 

7枚目は夕方の発車前ののんびりとしたひと時。3本のSL普通列車が発車していった。

 

8枚目はまだ電化が遅れていて気動車による急行列車たち。

 

9枚目は昭和44年7月の内房線最期のSLに名残惜しそうなファンたち。

 

次回は総武線・越中島貨物線と新小岩機関区のSLたちです。

 

 

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2 件の返信 (新着順)
denshakamera2
2025/11/22 23:12

両国からの新聞輸送は2010年まで続きました。最後は113系8連で、これは都内へ乗り入れる最後の113系であったそうです。(ブログ記事より。)


TOSHI
2025/11/23 09:41

私も撮りに行きましたが、両国駅13時過ぎの発車で千葉駅で4連ずつに切り離して客扱いをもしていました。

denshakamera2
2025/11/23 10:36

私は本八幡でブロニカで、下総中山でNikonD60で撮影しました。ブロニカは最後のショットとなりました。(レンズはNikkor75mmです。)
以下鉄ピク風ですがブログからの転載です。「津田沼から両国へ回送される113系8両編成は、両国から折返し荷2331Mとなって千葉まで走ります。千葉で後部4両を切り離して西千葉側の信号場へ引き上げ千葉駅内房線ホームへと転線します。残った千葉駅の4両は外房線269M4両編成と併結した8両編成で安房鴨川へ向かいます。転線した内房線の4両は187M4両編成と併結した8両編成でこれも安房鴨川へ向かいます。新聞輸送用に用いられるのはどちらも最後部の1両でした。(抄)」

TOSHI
2025/11/23 17:18

房総の鉄道は不思議で、夏季になると海水浴客が急増するために総武線の電車まで含めて夏季臨時ダイヤが設定されていました。そして車両が足りないので全国から気動車をかき集めて、遜色急行と呼ばれる優等列車なのに普通列車で使われるキハ35やキハ20等を組み込んだ編成が当たり前。

行商人専用車両に新聞輸送専用車両の存在も、千葉県の特質性を表しているかもしれません。

denshakamera2
2025/11/23 21:00

親族から「なつかしい」の一言。担ぎ屋さんは「黄色い電車の先頭に乗っていた」とのこと。
どうも千葉方面から乗ってきたようです。6時台の電車だったとのこと。三々五々下車していったとのことでした。
101系の行商人は知りませんでした。

nicolas
2025/11/22 21:44

これは貴重な記録的作品ですね😺
両国駅のターミナルは何のために使うのだろうと不思議に思っておりました。
ここからかつて銚子や勝浦、館山と結んでいたのですね。
今でも東京から特急で1時間半かかりますので、SLでどれ位だったでしょうか、、、
「行商のおばさん」が新鮮な野菜や果物、海産物をせっせと運んでくれたお陰で東京の食卓も潤ったことと思います。


TOSHI
2025/11/22 23:03

もともとは私鉄の総武鉄道の始発駅で、後に国鉄化されて浅草橋以西と電車線がつながりました。その関係で上野駅と同様に房総方面と都心を結ぶターミナル駅となりましたが、総武快速線の開通や房総各線の電化により東京駅から房総特急が発着するようになり使命を終わった経緯があります。

「行商のおばさん」のことをかつぎ屋さんとも呼び、列車内で物々交換して種類を増やし、両国駅に到着すると一斉にお得意さんの所に訪問していました。