会報誌・読みもの

小林先生の写真ノート <Vol.22>

前回からの続きです。

数日前に写大ギャラリー(東京工芸大学)で彭瑞麟展「我(わたし)は誰か/イ厓係麼人/我是啥人/我是誰」が始まった。実は直前になって、いくつか問題が生じた。海外とのやりとりの難しさなどを感じる場面ではあったが、それでも予定通り開催できたことにまずは胸を撫で下ろした。長いあいだこの展示のことで頭がいっぱいで、そして忙殺されていた。それがやっと終了を迎える。

前回も少し触れたのだが、フォトグラファーである自分が1年以上の長期にわたってリサーチの段階から写真展を企画したのは初めての経験で、どのような姿勢で向き合えばいいのか、関わっていけばいいのかということに対して当初、不安に思うこともあった。ただ結論から言うと、自分以外の作家の作品を企画・構成するとは、自分の作品展示を考えることよりもずっと刺激的で、エキサイティングで興味深いことだった。これは意外なことだったし、大きな発見でもあった。世の中の美術館の学芸員やキュレーターと呼ばれる人たちもこんな気持ちで日々仕事をしているのだろうか・・・と想像したり(専任の職業となるとまた違う気もするのだけど)。

自分の作品は当然ながら自分が撮影している。それを展示まで発展させる場合、多くは自分で構成する。私を含め多くのフォトグラファーはそれを普段行っている。プロだけでなく、写真愛好家の方も同じだろう。自分で撮って、自分でセレクトして、自分で構成し、自分で展示までもっていく。当たり前といえば当たり前だ。

ただ、俯瞰して考えてみれば、時に苦しくなるのもわかる気がしてきた。すべて自分すぎるからだ。自分の作品を展示まで持っていくとき、正直に告白すると、すでに飽きがきていると感じることがある。その原因はずっと自分すぎるから。そんな単純なことに、今回、展示をするなかで気がついた。他者の作品は飽きないのだ(もちろん作家と作品によるはず)。

さらに別のことにも気がついた。私は自分の写真展の会場に在廊しているのが昔から苦手だ。その理由について。すべての壁を自分の写真に囲まれると自分すぎて、恥ずかしい(自意識過剰でしょうか。あくまで私の場合です、誤解なきよう)という感情が湧くことは以前から理解していたが、それに加え、展示=完成、つまり終了に限りなく等しくなり、実は頭のなかでは次のことを考えだしていて、そわそわするのだ。

今回、すべての展示作業を終えてから、誰もいないギャラリーを私は意識してゆっくりと歩いた。心ゆくまで鑑賞することができた。自分の作品ではないから心が落ち着く。

不意に100年近く前に撮られた写真たちが再び目を覚ました、という感覚がやってきた。写真家の声もまた遠くから微かに聞こえてくるようだった。私はその声に耳を澄ませた。私はその声を確かに聴いた。

 

展示情報:
写大ギャラリー50周年記念展 Ⅳ
彭瑞麟写真展「我(わたし)は誰か/イ厓係麼人/我是啥人/我是誰」
2025年11月17日(月)~ 2026年1月30日(金) 10:00 ~ 19:00
休館日  木曜日、日曜日、

 ◯トークイベント
「写真家・彭瑞麟を語る──孫から見た祖父の肖像」
11月28日(金) 18時30分〜20時30分

 ◯日台合同シンポジウム
「日台写真史の交錯と継承──彭瑞麟の視座から」
主催:東京工芸大学芸術学部 写大ギャラリー 
協力:台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター
日時:2025 年11月30日(日)12:30〜18:05

詳しくは写大ギャラリーHPをご覧ください。

https://www.shadai.t-kougei.ac.jp/