会報誌・読みもの

小林先生の写真ノート <Vol.23>

 約4ヶ月ぶりに帰省した。夏のお盆以来。
 私の故郷は長野県、諏訪地方。新宿から特急あずさ号に乗れば2時間少しで着く。けっして東京から遠いわけではない。全国的に考えれば近い方だろう。

 それまでは1ヶ月に一度は帰っていた。あいだがあいてしまったのは、とにかく忙しかったからという一言に尽きる。近年、稀にみる忙しさだった。何足もの草鞋を同時に履いているからというのが大きな理由だが、言い訳はできない。何度か、もう無理かもと思うことがあった。

 20代前半、私は新聞社のフォトジャーナリストだったのだが、その頃はとにかく暇だった。正確には暇ではないけど、頭のなかが暇だった。朝、会社に行くと、取材伝票を写真部長から渡されて初めて今日自分がどこに行って、何を撮るかを知った。だから、なにも考える必要がなかったし、考える方が苦痛だった。考えても何も浮かばないのだから。

 その頃、「ああ、頭の中を仕事のことでいっぱいにしたいなあ」と妙な願望を抱いた。それほど退屈な日々だった。実際に退屈すぎて、私は体調を崩した。そんなこともあって3年少しで会社を辞めてしまったのだが、ときどきあの頃のことを思い出す。

 それに当てはめて考えてみれば、いまは「頭のなかが仕事のことでいっぱいすぎる」ということになる。つまり、あの頃、望んでいた通りになった。今頃?遅すぎだろうと自分で突っ込みたくなる。いっぱいすぎるのも問題だ。それはそれで、ほんとうに心に余裕がなくなる。

 4ヶ月ぶりの故郷は風景を大きく変えていた。私は電車を降りるとき、いつも決まって同じことをする。大きく息を吸うのだ。すると、どんな季節でも「ああ、帰ってきた」という実感が静かにじんわりやってくる。必ず、東京とその感覚、匂いが違うからだ。温度、湿度といったものも関係あるだろうが、もっと違う何かが加わっている気がする。

 もっとも違うのはビジュアルだ。季節のそれといってもいいかもしれない。唐松林の紅葉は最盛期をすぎ、八ヶ岳には初冠雪。里まだ秋の気配を十分残しているけど、八ヶ岳峰々はすでに冬の領域にある。違う時間、季節が同居している。私はきまって、ある場所へ向かう。まったくなんてことのない小さな道路脇。そこから八ヶ岳を望む。

 写真のなかで急に山が終わっているのはフォッサマグナの西側「糸魚川―静岡構造線」の断層のズレだ。そのことを知ったのは数年前にNHKの番組「ブラタモリ」で諏訪が紹介されているときだった。  子供の頃、学校の先生も誰もそのことを教えてくれなかった。もしかしたら私が聞き漏らしていただけかもしれないが、少なくとも親か近所のおじさんとかから聞いた記憶はない。「ブラタモリ」で知った時は、なんでいままで誰も教えてくれなかったのか、と正直思った。きっと、そんなことを知らないでその坂を登ったり、降りたりキノコを取ったりしている人は多い。諏訪で数日をすごせば、身体が次第に諏訪モードになっていく。やっぱりいいなあと素直に思う。しかし、今年は熊に注意。