
小林先生の写真ノート <Vol.17>
定点撮影
写真表現のひとつに、定点から撮影するという方法がある。定点撮影や定点写真といわれることが多い。ときに定点観測という言い方をされることもある。年月の経過などによって、同じ場所から撮っても差異が生じるため、そこに思わぬ発見があるからだ。
数年前、40年近く前に撮られた東京の街角とまったく同じ地点を再度撮影して街の変わりようを比較する、という写真集が出版されて話題になった。私もその写真集のファンだ。『東京タイムスリップ 1984⇔2021』(善本喜一郎著 河出書房新社2021という。帯には写真家・森山大道さんが「時が移り、人も風景も変わりましたが、一度写された写真に感覚される時間と世界は永遠です!!」という推薦文を寄せている。森山さんがこのように誰かの書籍に推薦文を寄せることはかなり稀なことだろう。実際に売れているようで、その後『東京タイムスリップ 1984⇔2022』『東京タイムスリップ 1984⇔2023』と続き、シリーズ化されている。
ページ構成は見開きで、左に1980年代の写真、右にここ数年のあいだに同じ地点で撮られた写真が並んでいる。つまり、かつてと今を見比べることができる。
広義的にこれも組写真といえるだろう。おそらくこの書籍を手にするのは私と同世代、あるいは上の世代だろうと想像する。
私は1986年に18歳で上京した。だからここに載っている当時の風景がとても懐かしかった。そう感じることに自分でも驚いた。東京に対して、ずっと旅先という感覚でいたつもりだったが、もはや故郷になっている感覚に気がついたからだろうか。郷愁、ノスタルジーとでもいえばいいのだろうか。
懐かしいのは、おそらく、かつての自分の心境、感情、出来事といったものを鮮明に思い出すからだろう。昔に流行った歌謡曲を耳にすると、一気に「あの頃」に戻る感覚に近い。
街全体が激変しているのは、書籍の表紙にもなっている新宿南口。
上京した当時、不思議な場所だと思ったことをよく覚えている。階段があり、その横にけっして綺麗とはいえない公衆トイレがあり、飲み屋が隣接していた。それも立体的に。ちょっと時空が歪んでいる感覚を覚えた。
ただこれほど劇的に変わっている地点は稀で、当時とまったく変わらないビルの横に真新しいビルがあったり、背後に巨大な高層ビルがそびえ立っていたりする。街は多くの場合、まだらに少しずつ変化しているという印象を覚えた。
さらに街をゆく人々に目がいく。当時のファッションは当然、今とは違う。髪型だけに注目しても面白い。女性の多くがパーマをかけている。どこかに自分が佇んでいるのではないだろうか?そんな気持ちにさせられる。
前置きが長くなってしまったが、私にとっての定点撮影は諏訪の実家の庭だ。まんなかに生け簀がある。その生け簀は生まれた時からあった。植木と盆栽好きだった祖父が、あるとき思い立って作ったらしい。その話は幼い頃に何度も聞かされていた。でも正確な年はわからない。
確実に60年前にはあった。おそらく70年ほどはたっているだろう。子供の頃は鯉が泳いでいた。ここでどれほど遊んだことか。計り知れない。でも、いまは1匹もいない。正直、荒れ始めている。
写真を始めた頃から生け簀を撮っている。帰省するたびにカメラを向ける。特に理由や目的はない。習慣みたいなものだ。カメラを向けないと落ち着かない。仮に『東京タイムスリップ』のように、学生時代に撮った写真と、最近撮ったものを並べたところで、東京の街のような大きな変化はそれほど期待できないだろう。ただ、季節の違いは鮮明だ。
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1枚目の写真は2024年の冬の終わり。2枚目の写真はほんの数週間前に帰省したときに撮った。草が伸び放題。春から1度も草刈りや剪定をしていないからだ。この写真を撮ったあと、錆びついた鎌を砥石で研ぎ、私はその作業をしたのだが、暑さから途中でやめてしまった。根性がないと自覚する。農作業が昔から好きではなかった。田んぼと畑で、やらされすぎたからかもしれない(言い訳)。庭に対して、すでにこの世を去っている祖父や父のような思いや、律儀さ、正確さが私にはない。
オーナー会社は3代目の孫が潰すパターンが多い、なんてどこかで聞いた話をふと思い出す。でも、庭も生け簀も会社じゃないから、簡単につぶれそうにない。