
小林先生の写真ノート <Vol.16>
本質的で普遍的なこと
1週間ほど前、台湾、台北の「Photo ONE’25 」という写真のアートフェアに、ポートフォリオのレビュアー(講評者)として初めて参加してきた。このアートフェアは以前から行われていたものだが、コロナ禍で中断を余儀なくされ、今回、数年ぶりに再開された。作品展示、作品販売、ブックフェア、そしてポートフォリオ・レビューなどから成り立っている。
私は2日間、合計17名の参加者の方の作品をレビュー(講評)させてもらった。日本でポートフォリオや作品そのものをレビューしたことはもちろんこれまで何度もあるが、海外でするのは初めての体験だった。当初は人数がそれほど多くないと思い込んでいたのだが、1日目は9時30分から17時過ぎまでみっちりでかなりヘトヘトとなった。持ち時間は一人20分。
レビュアーの数も多く、30名ほどいた。写真家、評論家、キュレーター、編集者などだ。そのうち日本人の写真家、その関係者が10名近くいた。そのことに驚きを隠せなかった。それだけの人数を日本から招聘したのだ。台湾写真と日本写真が深い関係にあることを改めて実感する場面でもあった。
果たして、どんな人たちが作品を持ってくるのか。まったく予想がつかなかった。事前情報もあまりなかった。日本語の通訳の方がついてくれることだけは聞いていた。写真を学んでいる学生が多いと勝手に想像していたのだが、実際は大きく違った。すでにある程度、作品が完成していた。なかには写真集まで既に出している方もいて驚いた。
年齢でいえば30代、40代が全体の中心という印象を受けた。
当然といえば、当然かもしれないが、参加者のほとんどは台湾の方だった。一人だけフランス国籍で、台湾に長く住んでいるという方もいた。私の担当にならなかったが、日本人の方も参加していた。若いが、すでに写真家と呼ばれている人だった。
消防士だという男性は緊迫した事故や火事の現場の記録写真と、同僚たちが家に帰ってリラックスしているプライベートなポートレート写真の両方を撮っていた。例えば、同僚の男性が奥さんとリビングでくつろいでいる写真などだ。それを組み合わせていた。
ヌードを含めさまざまなパフォーマンスをして、それを自身で撮影している女性もいた。すべてセルフポートレートで、シャッターもセルフタイマーで撮っているという。とても一人で撮影しているとは考えられないほど、完成度が高かった。世界中の風景を撮影し、プラチナプリントで作品を長年作っている方もいた。
通訳が入ったとしても、言葉の問題はある。当初、そのことを最も心配していたが、杞憂に終わった。写真は言語を必要としないメディアだと改めて確認する場面でもあった(ただし、まったく必要としないわけではない)。
作品の傾向はさまざまだったが、全体を俯瞰してみると自分の内面を扱ったものが多かった。人が生きていく上で必要なこと、避けられないこと、いってみれば本質的で普遍的なことは国境や民族、文化、言語が違ったところでそう大きく違うわけではない。
似たようなことに喜び、悩んでいるといってもいいだろう。一方で台湾が抱えている特殊性というものがその背後に横たわっていることは間違いなく、そのことに常に留意する必要があった。
作品の概要を簡単に説明してもらうと、不思議なほど自然と作品の世界に入っていけた。そのことを今回体験できたのは大きな収穫だった。何より台湾の人たちの写真に対する熱い思いと質の高さを知った。(小林紀晴)
